昭和41年10月9日 朝の御理解
末永静行(№41-113-A-1)
昨夜、御祈念が済んでからでございましたけれど、総代さんの久富さんが何がの話から、雀がせっかくおかげで実っておる稲穂を伏せっていくという訳ですね、言うなら腹のたつ事がある、そうでしょうね、監視を取らせて、ようやく実っておる稲穂に雀がつくのですから、しかも、たくさんの雀がやってくるわけです。はろうても、はろうてもやってくるわけです、かというて、またごりょうなんかを作られると、ご存知、羽虫が付くそうですね、その羽虫をまたたくさんの雀がやってきては全部取ってくれるという訳です、そげなん時には嬉しい。
これは、誰でも同じだと思うんですね。自分の都合の良いようにある時には雀にでもお礼が言いたい、自分の都合の悪い時にはその雀が憎たらしい、これでは、その、私共の助かりと言うのはないと思うんです。
息子がいろいろと手伝いをしてくれるようになる、たまには親の代わりは出来るようになる、本当に息子を育てたかいがあったと喜ぶ、今度はその息子が反対にお金をつこうたり、親のいう事を聞かなかったり、親の心配をかけると、本当にこげなん息子はおらん方がよかっち、持たんほうがよかっち、ね、やはり、息子が加勢をする時には、一生懸命働いてくれる時には有り難い、けれども、その親も働いて阻害するような、親の働きにぶら下がってくるような時には厄介しする、いや、もうもたん方が良かったり、そう思う。ね、そう言う、事の中に教祖の神様はどう言うような生きられ方、どう言うような在り方をなさっただろうかと、私はお道の信心はそう言うふうなところが大事だと、でなかったら信心があってもなかっても同じ、そう言うところを場合によっては馬鹿と阿呆でとこう仰る。
そう言う中に、自分の都合といったようなものを抜きにして、ね、大きな心でそこんところを受け止めていけれる信心を頂かなければならん、お道の信心で言う、その、大きな心と言うのは、自分というものを中心にした生き方ではなくて、神様を中心にした生き方、そう言う生き方ができる事になる事が私は大きな心だとこう思う。自分を中心にすると、雀が虫をとってくれる時には有り難い雀であり、稲穂をつく時には憎たらしい雀であると、ね。
ですから、そこを私は大きな心、雀とてもやはり神様のお生かしになっておる生物なんだから、ね、ですから、その日頃、自分が作った自分の対処でこんなに立派にできたと、自分の力でこれだけ作ったと言う思い方の中に、俺がせっかく作ったのを雀がこんなに荒らしてしまうと、言うようなことにならなければならない、ね、それでも、やはり、つつかれちゃ腹が立つようでございますけれどもです、そこんところを私はどう言うふうに頂いていったらよいか、教祖の神様はそこんところをどう言う風に頂いておいでられただろうかと、ね。
昨夜の御理解の中にも、これは信心があってもなかっても、ね、誰でも今日一日と言う日を嬉しゅう、また、楽しゅう、ね、気分の良い一日であるとは願わん者はあるまい、ところが、一日が腹ただしい一日であったり、一日がイライラする一日であったり、モヤモヤする一日であると言うような事のもんですから、ね、これは信心があってもなくてもやはりそうなんです、だからそこんところを願うていく、いわゆる、私の心に和らぎ喜ぶ心を頂かせて下さいと、いわゆる、私の心の中に豊な心を頂かせて下さいと願って行く、それが願いであるけれども、その、願っただけでそんな豊な心は頂けれるという事ではないのです、ね、そう言う和らいだ心にならせて頂くところの精進を、ね、当然今日朝から腹がたつ、急に心がイライラする、自分だけならそれで良いのですけれども、これが、自分の周囲に響いていく、自分の腹ただしい心が人の心を傷つける、傷つけるぐらいなら良いけれども、人の心を真っ暗になるような人の心を殺して行く。
昨日、一昨日でしたかね、どっか上方の方に、自分の子供を殺してから風呂の中に投げ込んだと言う母親がある、自分の同じ血を当てた子供ですよ、ね、もう今朝内は起きたならば子供を絞め殺そうと初めから思うた母親はない、ね、けれども、そこに、やはりもうどうにもこうにもできん歯痒い思いがしたり、腹立たしゅうなったり、いわゆる、まあヒステリックな状態になった時に自分の子供をもう何もかも見境がつかなくなって、さぁー後は泣きの涙で後悔したって仕方がない、ね、自分の子供まで殺してしまうような事になってくる。
教祖の神様は高橋の家での事はお上があってお仕置きにあうけれども、心で殺したり、心で傷つけたりする罪は大きいと仰る、ね、自分の心で人を傷つけたり、自分の心で人を殺したりしておるのじゃなかろうか、そう言う罪が大きい、ね、そう言う例えばイライラとか恥ずかしいと言う問題でもです、やはり、自分の心では自分ではどうにも出来ない、今日は豊に豊に、自分の心をです、有り難く有り難く、さぁー朝参りでもさせて頂いて、今日は有り難い、今日は有り難い、有り難い、この調子で行きゃいいんだけれども、だから、みんなのその調子でですたい、ね、優しゅう、理解のある在り方になってくるならいいのだけれどです、その中で鳥はおろさんのです。ね、いわゆる、雀がきて、今頃つつくような事があるのです。自分の都合の良いように、自分の畑の虫だけをとってくれる時には有り難い、それでばーと取られば有り難い、有り難いが続くのですけれども、それとは反対のことになってくる、信心とはだからそう言う時にです、そういう事ばどう言うふうに受けていくかと、そこには今日の御理解の生きられ方と言うものがあると、教祖の神様はそこんところをどう言うふうに頂かれた、ね、そう言う時には、例えば自分の子供の中にいう事を聞かぬ子供があるとです、自分のお粗末、自分のご無礼、自分の不行き届きととして神様にわびていかれた、または、恵のお取り払いとして御礼を申し上げて行かれる、神様がこうして私に力をつけてくださると言うて、それを自分の力にしておいでいられた、ね。
教祖の神様のお子さんだから、皆素晴らしいお子さんとばっかりとあったではないのですよ。親のいう事を聞かずに、ね、お金は良いように付こうて、親の許さん結婚をしたり、ね、教祖の御晩年のころまでおよんでたてつかれたお子さんもやっぱおありになるのです。ね、それを全部自分の、いわば、力をいよいよ頂いて行くためのもとになさっておいでられた、そう言うさまいむられて来る神様にお詫びしぬかれた、ね、めぐりのお取り払いを頂いたとして神様に御礼を申し上げておいでいられた、そう言うようなご信心から此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと言うような御教えが残っておるんだと私は思うのです。
自分の都合の良い事ばっかり、自分の都合の良い事ばっかりの雀である時には嬉しい、有り難いのだけれど、それとは反対の時には腹がたつと言うたんでは、もう、それはおかげにはならん、ね、人を有り難く受けきらないところにです、有り難く受けさせて頂く稽古をなさった、また、本当の事、真実の事を分らせて頂いたらです、ね、本当の事を分からせて頂いたら、雀が今頃つつく事でも神様にお礼を申し上げねばならない事なんだけれど、私共は目先の事が分からんから、( )の事が分からんから、苦にしておるだけのこと、神様が本当のお心が分かったらお礼を申し上げなければならん。
昨日、ある方が息子さんのもう、いわゆる、いう事を聞かん、( )、息子が始めの間とてもいうこつ聞き寄った、椛目にもお参りをしよった、ところがもうお参りせんことなった、そして、いう事を聞かんことなった、お父さんが一生懸命信心があって、お取次ぎを願われた、そしたら、私の御心眼、神様から頂く事がですね、私はもう半年前ぐらいでしたかね、なんかの用で福岡に参りました、あれはどっか( )全部車の駐車場畑で、車を売りよるところが出来て、そこんところの情景を頂くんですね、ほらあんた○○さんあんたこれはお礼を申し上げねばならん事ばいと、息子がいう事を聞かん、息子もやはり、その、いう事を聞かんのはやっぱ息子事態も苦しい時なんです、息子は息子に考えがある時なんです、それは、さぁーいくらお父さんでも分からんのだと、ね、いわば、ある時その息子の、息子がです、本当のおかげを頂くために、本当の信心をさせて頂くために、いや、本当に、いわば、信心の基礎を作ったり、私は自動車が売りよると言うところは徳の車を売りよるところだとこう思う。ね、一台、二台にはたくさんの車を自分の心の中にです、ようとこう売れる事のできるような、大きな、いわば、目には見えない、言うなら、火の神様が息子を通して息子の信心の基礎作りをして下さっておる時である、ね、それを、お父さんはどうして息子がいう事を聞かんじゃろうかと言うて、悔やんでおる、ですから、そういう時に息子さんが例えば本当な事は分からんに致しましてもです、いう事を聞かんと言う息子を殺しかねる、ね、あれが家のめぐりのお取り払いをしてくれておる、ね、いや、そう言う息子がおるおかげで私が神様に打ち向かう事が出来る、おかげで私が力が頂けれる、と言うようなです、受け方が、実を言うたら本当なんです。ね、それを、私共が喜びきらない、お礼を申し上げきらない、そこんところに私の不行き届きとして、お詫びをする心が生まれない、ね。
どちらにしても有り難い、そこんところを私は分かっていかなければ信心を頂いて行く値打ちはないと思う、自分の都合のよいことだけが有り難い、都合の悪い事は有り難くないと、その、有り難くないんだけれども、その事によって何かを得て行かなければ、力を頂いて行かなければならん、ね、その事が自分の身に、損になる事ならばめぐりのお取り払いを頂いて有り難い、または、そう言うようなことがです、自分の信心の不行き届きからそう言うようなことが起こっておるかも知れんから、ね、私の信心の不行き届きとしてお詫びをして行かなければならん、ね、そこには、いわばどちらへ転んでもおかげを頂けれる状態になっていくことができんるんです、ね、教祖の神様と言う方はそう言うような生き方、そう言うような受け方を私は心得ておられたお方であったと、私共もそう言う信心を身につけていかなければならん。
どうぞ、今日も一日私の心の中に豊な和らいだ心を頂かせて下さいと願い続ける、願い続けるという事はやはり神様のお喜び頂けれるような、神様の教えが本気で行じ、本気でそのことに取り組ませて頂くという事がです、神様のお喜びが私共の心の中に豊な心を下さる、いわゆる、お詫びの心を下さる、ね、神様を中心にした考え方ができるようになってくる、ね、自分の小さい考えを前に出さずに、神様のお心を心として、考え方ができるようになる、そこでは腹のたつ事でもなからなければイライラするような思いをせんで済むおかげが受けられる、ね、そう言う豊な心でです、例えば、なら痛い事が起こってきても、困った事が起こってきてもです、その豊な心で受け止めて行く事が出来る、ね。
息子がいう事を聞く時には有り難い、いう事を聞かん時には腹がたつ、イライラする、ね、これでは信心のない者も同じこと、そのいう事を聞かないことのです、真相というものはです、実際の事は私共は分からんに致しましてもです、本当に息子がいう事を聞かんのは私の信心の不行き届きだ、または、めぐりのお取り払い、いや、それによって私に力を与えて下さるのだと言うふうに私は頂いて行く私は生き方をです、いよいよ、身につけていかなければならんとこう思うのですね。
そう言う事をいうと、結局あれは馬鹿じゃなかろうかと言うようなことになるけれども、そう言うようなときこそがです、私は馬鹿と阿呆で道を開けと言うのはそういう事じゃなかろうかと思う、ね、そこに、私共の本当の幸せの道がいよいよ開けて来る、限りなく力を受けて行く事ができる、いよいよ喜びの種が喜びの実になり、花になり、喜びの実りなって行くおかげになる、ね、金光様のご信心をするなら、どうでも馬鹿のごたっても、阿呆のごたっても、やはりそこんところを自分のものにして行く以外、その事以外の稽古はない、そのことなんです。
お願いをして自分の思いようになっただけがおかげ、と言うような頂き方から、ね、一歩づつそういうふうに、前進して行くところのおかげを頂いて行かなければならんと思うんですね。
どうぞ。